人:私の救世主はどこかに居るのだろうか。
私は誰かの救世主なのだろうか。
主は、信仰は、私の救世主なのでしょうか。
牧師:主は仰せられた。信じなさい。
祈りなさい。そうすれば救われます。
人は、愛と信仰と希望によって生まれ変わります。
牧師先生はいつもこんな風に私達に説教をしてくれる。
でも、時々思う。
牧師先生自身が何処までそう信じているのだろうと、、ふと、思うことがあった。
・・・・・・・・・・・・・・・
アガサ・くりすティの小説にこんな話があった。
あるとても純粋で生まれながらに善な一人の少女が恋をした。
その相手の男は生まれながらに悪物だと皆から言われていた。
しかし、少女は彼を愛していたし、信じていたので皆に言っていた。
「自分達は心から愛し合っていて、彼は愛によって生まれ変わった。」
「自分達が結婚すれば必ずお互いを慈しみ幸せな結婚生活を送れるはずだ。」と。
「彼は生まれ変わったのだ。」と。
しかし誰一人としてその少女の話を信じようとはしなかった。
その男は今までに余りにもひどい行いばかりをしていたので、牧師でさえ少女の言葉を信じられず、結婚式は挙げてあげられない。と言っていた。
牧師:「娘よ。あなたは未だ若く、夢見る年頃だ。」
「初めて恋をした男に夢中になって、愛が全てを変える、と無邪気に信じている。」
「しかし、人はそう簡単に生まれ変わる事など無いのだよ」「あの男は悪人だ。君にはふさわしくない。」
娘:「牧師様、それは違います。」
「牧師様はいつも私達に、愛と信仰と希望によってのみ人は生まれ変われる。人は救われるのだと仰っていましたね。」
「私達はそれを信じたのです。」
「彼は、愛によって生まれ変わりました。」
牧師:「・・・しかし、そうは言ってもだね、、、」
娘:「・・・・それでは、」
「それでは、人は決して救われる事はないのですか?」
牧師:「・・・!?」
小説では、ここで牧師は自分が心から主の教えを信じていなかった事を知り、自分を恥じる。
少女とその男を信じて、村人には内緒で2人の結婚式を挙げてあげよう、と約束をする。
とはいえ、当日になっても、まだどこか信じきれず「男は来ないかもしれない」と思っていた。
しかし、男は来た。少女が待つ教会へ。
心から愛するその娘と結婚する為に。
その時牧師が見たその男は、本当に生まれ変わっているように見えた。二人は心から愛し合っていて、とても幸福そうであった。
牧師は自分を心から恥じ、改めて信じる事、愛する事、希望を持つ事の意味を知った。
・・・・・・・・・・・・・・・・
この場面を見た時、私の中に雷のようなものが落ちた気がした。
誰もが、この牧師のように、自分は賢く、周りは未熟だとどこかで思っているのかもしれない。
自分はいろんな事を知っていて、相手はまだ分かっていない。
相手が自分と同じ様に考えられないのは、相手が愚かだから、と。
そんな気持ちでいる時、人は「相手の為」と思って言った、忠告やら、分析やら、その人が信じる「真実」とやらで、無自覚に人を傷つけてしまったりする。
あなたのやっている事は違う。これが正しいのよ。
あなたはやっぱり全然分かっていないわね。
努力してる?でも、変わってないじゃない!そんなんじゃ駄目よ。
など。
悪気は無くても、きっと自分のほうが相手より良く知っていて正しいと思っているので、無意識に他の事を受け入れる気が無くなってしまってるんだろうと思う。
きっと、遠回りしている人を見ては、「時間を無駄に過ごしている」と感じるし、
自分のやり方と違う方法で結果を出そうとしている人を見ると、否定したくなる。
間違いを見つければ、それをズバッと指摘して正す事で自分の満足感を得る。
それでいて、自分は救世主気取り。
勿論、そんな事をされれば相手は心が騒ぐだろうし、自信を無くしてしまうかもしれない。
きっと傷つくだろう。
そして、その人もまた、相手を否定する事で自分を守ろうとして、結局同じ様に誰かを傷つけることになってしまうかも。
私自身、こうやって誰かを傷つけたり自分を傷つけたりしていると思う。
そういう自分はとても嫌だし、とてもかわいそうだと思う。
自分でさえ自分を信じ抜いてあげられなくて、人に言われた事をイチイチ気にして一喜一憂したりして。
大丈夫。自分が満足して、納得してやっているなら、それで良いじゃない。
自分にとってはそれが正解なんだから。
例え自分が認めて欲しいと思っていた人に認めてもらえなかったとしても、自分が頑張ったのならそれで満足したって良いじゃない。
誰かと比べて、あっちの方がやっぱりすごいなーって思っても、自分は自分で結構よろしくやってるんだから、それでいいじゃない*
もし、今は駄目でも、次はもっと上手くやれるかもしれないし、ま、良いじゃない。
って、そう自分を認めて、相手も否定せずに。
そんな風に自分にしてあげられるに頑張ろう。
上にかいた少女は余りにも純粋でとても善にあふれた人だった。
だから、その道のプロであると皆が認め、尊敬されている牧師先生に「あなたは間違った道にいて、間違った相手を求めている」と言われても、それを本当だとは思わなかった。
少女は自分の正しい目で正しいものを見ていたから。
彼の愛を信じていたし、自分の彼への愛も信じていた。
彼との未来も、自分と彼の幸福も全て信じていた。
そして、少女にとって、それだけが真実で、正しい事だった。
そして、皆の予想に反して本当に男は生まれ変わっていて、彼女を心から愛し、2人で幸せになりたいと願っていた。
プロの見立てより、彼女の信じる心が正しい結果を導いたのだ。
彼女にとって、本当の救世主は、自分自身の信じる力だったのだろう。自分を信じる力、相手を信じる力、未来を信じる力、安易に現実に失望しない力、人は変われると信じる力。
何が言いたいのか分からなくなってきたけど、
たぶん、この世に「信じるに値するもの」は必ず存在するし、きっとそれこそが自分の救世主になるんだろうな、と思った。
もちろん参考になるアドバイスはたくさんあるし、人が親切で言ってくれる事を無下にするのはよくない。
でも、それに合わせていつも自分の価値観を疑っていては、心がいつも不安定だし、きっととっても疲れてしまう。
そんな状態では、きっとどんないいアドバイスだって逆効果なってしまうんじゃないかな。
自分がなにを好きでホントは何が嫌いなのか分からないまま、自信も持てず、孤独な気持ちを抱えてしまうと思う。
私も、あの少女のように自分の信じるものを自信を持って信じ、愛し、希望を持ち続けていきたいな。
きっと、私が参考にしていたTRも、結局そんな事を私に教えてくれていたような気がする。
今は、心から主人を信じ、愛せる自分がいる。
自分の事は時々「駄目だなー」って思っちゃうこともあるけど、
そんな時でも、私は彼だけは信じられるし、彼に愛されている事も信じていられる。
今の私にとっては、心からの愛を信じられる主人がいること、その主人を心から信じられる自分が、私の救世主だと感じる。
生活の中で、ふとすれ違う事もやっぱりあるけど、そんな時もこのことを思い出すと、何だか「ま、いっか(笑」大したことでもないし、って思える。
もし、そう思えない時が来たら、これを読んで思い出そう(^^;)
彼と私は、これからいったいどんな夫婦になるんだろう。
楽しみだな。
まだ、喧嘩はしたことがないけれど、きっといつかはするのかもしれない。
どんな風に仲直りすんだろう。
怒った彼って、どんなだろう?なんだか、想像できなくてくすぐったいけど。
まぁ、喧嘩したらまたここを見て泣いたり反省したりして、私から謝ろう。
だって、たぶん彼もその時は自分から謝ろうと思っていると思うから。
ふふふ、負けられません!←何。
狙え!謝り勝ち♪
それでは、今からお出かけです。行ってきまーす。
私は誰かの救世主なのだろうか。
主は、信仰は、私の救世主なのでしょうか。
牧師:主は仰せられた。信じなさい。
祈りなさい。そうすれば救われます。
人は、愛と信仰と希望によって生まれ変わります。
牧師先生はいつもこんな風に私達に説教をしてくれる。
でも、時々思う。
牧師先生自身が何処までそう信じているのだろうと、、ふと、思うことがあった。
・・・・・・・・・・・・・・・
アガサ・くりすティの小説にこんな話があった。
あるとても純粋で生まれながらに善な一人の少女が恋をした。
その相手の男は生まれながらに悪物だと皆から言われていた。
しかし、少女は彼を愛していたし、信じていたので皆に言っていた。
「自分達は心から愛し合っていて、彼は愛によって生まれ変わった。」
「自分達が結婚すれば必ずお互いを慈しみ幸せな結婚生活を送れるはずだ。」と。
「彼は生まれ変わったのだ。」と。
しかし誰一人としてその少女の話を信じようとはしなかった。
その男は今までに余りにもひどい行いばかりをしていたので、牧師でさえ少女の言葉を信じられず、結婚式は挙げてあげられない。と言っていた。
牧師:「娘よ。あなたは未だ若く、夢見る年頃だ。」
「初めて恋をした男に夢中になって、愛が全てを変える、と無邪気に信じている。」
「しかし、人はそう簡単に生まれ変わる事など無いのだよ」「あの男は悪人だ。君にはふさわしくない。」
娘:「牧師様、それは違います。」
「牧師様はいつも私達に、愛と信仰と希望によってのみ人は生まれ変われる。人は救われるのだと仰っていましたね。」
「私達はそれを信じたのです。」
「彼は、愛によって生まれ変わりました。」
牧師:「・・・しかし、そうは言ってもだね、、、」
娘:「・・・・それでは、」
「それでは、人は決して救われる事はないのですか?」
牧師:「・・・!?」
小説では、ここで牧師は自分が心から主の教えを信じていなかった事を知り、自分を恥じる。
少女とその男を信じて、村人には内緒で2人の結婚式を挙げてあげよう、と約束をする。
とはいえ、当日になっても、まだどこか信じきれず「男は来ないかもしれない」と思っていた。
しかし、男は来た。少女が待つ教会へ。
心から愛するその娘と結婚する為に。
その時牧師が見たその男は、本当に生まれ変わっているように見えた。二人は心から愛し合っていて、とても幸福そうであった。
牧師は自分を心から恥じ、改めて信じる事、愛する事、希望を持つ事の意味を知った。
・・・・・・・・・・・・・・・・
この場面を見た時、私の中に雷のようなものが落ちた気がした。
誰もが、この牧師のように、自分は賢く、周りは未熟だとどこかで思っているのかもしれない。
自分はいろんな事を知っていて、相手はまだ分かっていない。
相手が自分と同じ様に考えられないのは、相手が愚かだから、と。
そんな気持ちでいる時、人は「相手の為」と思って言った、忠告やら、分析やら、その人が信じる「真実」とやらで、無自覚に人を傷つけてしまったりする。
あなたのやっている事は違う。これが正しいのよ。
あなたはやっぱり全然分かっていないわね。
努力してる?でも、変わってないじゃない!そんなんじゃ駄目よ。
など。
悪気は無くても、きっと自分のほうが相手より良く知っていて正しいと思っているので、無意識に他の事を受け入れる気が無くなってしまってるんだろうと思う。
きっと、遠回りしている人を見ては、「時間を無駄に過ごしている」と感じるし、
自分のやり方と違う方法で結果を出そうとしている人を見ると、否定したくなる。
間違いを見つければ、それをズバッと指摘して正す事で自分の満足感を得る。
それでいて、自分は救世主気取り。
勿論、そんな事をされれば相手は心が騒ぐだろうし、自信を無くしてしまうかもしれない。
きっと傷つくだろう。
そして、その人もまた、相手を否定する事で自分を守ろうとして、結局同じ様に誰かを傷つけることになってしまうかも。
私自身、こうやって誰かを傷つけたり自分を傷つけたりしていると思う。
そういう自分はとても嫌だし、とてもかわいそうだと思う。
自分でさえ自分を信じ抜いてあげられなくて、人に言われた事をイチイチ気にして一喜一憂したりして。
大丈夫。自分が満足して、納得してやっているなら、それで良いじゃない。
自分にとってはそれが正解なんだから。
例え自分が認めて欲しいと思っていた人に認めてもらえなかったとしても、自分が頑張ったのならそれで満足したって良いじゃない。
誰かと比べて、あっちの方がやっぱりすごいなーって思っても、自分は自分で結構よろしくやってるんだから、それでいいじゃない*
もし、今は駄目でも、次はもっと上手くやれるかもしれないし、ま、良いじゃない。
って、そう自分を認めて、相手も否定せずに。
そんな風に自分にしてあげられるに頑張ろう。
上にかいた少女は余りにも純粋でとても善にあふれた人だった。
だから、その道のプロであると皆が認め、尊敬されている牧師先生に「あなたは間違った道にいて、間違った相手を求めている」と言われても、それを本当だとは思わなかった。
少女は自分の正しい目で正しいものを見ていたから。
彼の愛を信じていたし、自分の彼への愛も信じていた。
彼との未来も、自分と彼の幸福も全て信じていた。
そして、少女にとって、それだけが真実で、正しい事だった。
そして、皆の予想に反して本当に男は生まれ変わっていて、彼女を心から愛し、2人で幸せになりたいと願っていた。
プロの見立てより、彼女の信じる心が正しい結果を導いたのだ。
彼女にとって、本当の救世主は、自分自身の信じる力だったのだろう。自分を信じる力、相手を信じる力、未来を信じる力、安易に現実に失望しない力、人は変われると信じる力。
何が言いたいのか分からなくなってきたけど、
たぶん、この世に「信じるに値するもの」は必ず存在するし、きっとそれこそが自分の救世主になるんだろうな、と思った。
もちろん参考になるアドバイスはたくさんあるし、人が親切で言ってくれる事を無下にするのはよくない。
でも、それに合わせていつも自分の価値観を疑っていては、心がいつも不安定だし、きっととっても疲れてしまう。
そんな状態では、きっとどんないいアドバイスだって逆効果なってしまうんじゃないかな。
自分がなにを好きでホントは何が嫌いなのか分からないまま、自信も持てず、孤独な気持ちを抱えてしまうと思う。
私も、あの少女のように自分の信じるものを自信を持って信じ、愛し、希望を持ち続けていきたいな。
きっと、私が参考にしていたTRも、結局そんな事を私に教えてくれていたような気がする。
今は、心から主人を信じ、愛せる自分がいる。
自分の事は時々「駄目だなー」って思っちゃうこともあるけど、
そんな時でも、私は彼だけは信じられるし、彼に愛されている事も信じていられる。
今の私にとっては、心からの愛を信じられる主人がいること、その主人を心から信じられる自分が、私の救世主だと感じる。
生活の中で、ふとすれ違う事もやっぱりあるけど、そんな時もこのことを思い出すと、何だか「ま、いっか(笑」大したことでもないし、って思える。
もし、そう思えない時が来たら、これを読んで思い出そう(^^;)
彼と私は、これからいったいどんな夫婦になるんだろう。
楽しみだな。
まだ、喧嘩はしたことがないけれど、きっといつかはするのかもしれない。
どんな風に仲直りすんだろう。
怒った彼って、どんなだろう?なんだか、想像できなくてくすぐったいけど。
まぁ、喧嘩したらまたここを見て泣いたり反省したりして、私から謝ろう。
だって、たぶん彼もその時は自分から謝ろうと思っていると思うから。
ふふふ、負けられません!←何。
狙え!謝り勝ち♪
それでは、今からお出かけです。行ってきまーす。
コメント
再開して、なんとコメントしようか考えているうちにちょっと時間が経ってしまいました。
でも今日の日記を見て、改めて
「ステキな生活を送ってるんだろうなぁ」と感じました!!
それでは、改めてよろしくお願いします!!
コメント嬉しいです!自分ではメモのつもりで書いたんですけど、メモ長すぎ^^;
相変わらずです(笑)
また、日記にもお邪魔させてくださいね*
それでは!
まう